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中宮障子と紫式部

陰キャの友情

対 象

実施日

中宮彰子

彰子誕生から入内

紫式部の上司
パパは藤原道長
ママは正妻の倫子
倫子は道長より少し年上

道長は左大臣の娘、源倫子と結婚して実家以外にも後ろ立てを得ようとした。
あと倫子の妹が義兄道綱の奥さんなんでそこら辺も絡んでいるのか。
でもさぁ、道綱って道長より一回り上なんだよね、倫子の妹って何歳差よ?

大鏡等によると
道長の方から結婚を申し込む。
倫子パパは反対。
倫子を天皇に入内させたかったとか、まだ寛和の変前で同格の家の五男坊で位も低い道長に嫁がせたくない、とかの理由。

倫子ママが道長を見かけて
「あの人は大物になるわよ、私は結婚に賛成!」
という話が残ってる。

結婚時には寛和の変後で昇格もしていたのでパパも認めたか、道長は倫子の実家に住むようになる。

で産まれた長女が彰子です。
どうやら陰キャだったようで陽キャの定子とは対照的に描かれているような節がある。
紫式部にも最初は懐かなかったみたい。

定子のママと違って倫子は文学的な知名度は無いので文化人としての素養は無かったか。
道長は腕前は高かったけど。

で長徳の変が起きて道長に権力が移った後に10歳前後で一条天皇に入内。
一条天皇のママ、政治に口出す詮子ママと倫子は仲が良かったみたい。そこの後押しも当然あったでしょう。
入内した日に定子が第二子にあたる男児を産んだのは歴史の悪戯か。

一条天皇とは9歳差。
年下過ぎて、一条天皇も最初は入内に難色を示したとか。

一条天皇も定子も彰子も、全員従兄弟の関係なんだけど、親の思惑はどうであれ3人とも仲は良かった。
夫婦としては定子側の方が理想の夫婦と歴史上判断されているけれど。

彰子と紫式部

入内したあと彰子を中宮として教育するために家庭教師を雇う。
定子に清少納言が就いたように。というかそこを目指したんだと思う。理想の夫婦だったし理想の上司部下の関係。
ライバルもほぼ居なくなった道長。
権力と金にものを言わせて家庭教師を集める。集めまくる。

そのメンバーが赤染衛門、紫式部、和泉式部と当時名を馳せてた女流歌人だったわけです。

赤染衛門は倫子の家庭教師でもあったのでその縁か。
和泉式部は紫式部よりちょっと後輩。
紫式部は夫を亡くした後で、なんていうかタイミング良かったんだろうね。
こうして後世に語り継がれる障子サロンが発足しました。

摂関政治へ

年齢が低いので子供を産むのはすぐとはならなかったんだけど、道長は強引に彰子を中宮にします。
この時は定子も存命で、天皇に2人の中宮がいるというめっちゃ不自然な状態に。これが「一帝二后」の歴史上最初の例みたい。

この不自然さを理論武装して天皇に納得させたのが行成。
道長はこのことを行成にめっちゃ感謝した。

その後、定子が亡くなり彰子に子供が生まれ、その子供がまた天皇に。
このように摂関政治が作られていくことになります。

ちはみに障子は90歳まで生きたそうな。

彰子

彰子は陰キャと書きましたが、
紫式部達に育てられて成長していく。

定子の死後、その息子(=次世代天皇の第一候補)を引き取って養育している。
もちろん自身の意志で決めたわけじゃないだろうけど、立場的には自分の息子のライバルになる子だからスゴイ。

そして一条天皇が引退するとき次の次の天皇=東宮を決めるにあたって、道長は自分の孫(=彰子の息子)を東宮にするように一条天皇を脅すんだけど、彰子は自身の息子ではなく定子の息子を推すのです。
皇位継承権はそっちの方が高いし、それが道理だと。
道長にそれを直談判したと残ってるんだけど、父親とはいえ当時の最高権力者にクレームつけるんだからスゴい。

結局、彰子の意見は退けられるんだけど、一連のエピソードが障子の人柄を表しているんじゃないかと思う。

なお、定子の息子を彰子が養育するよう一条天皇に提案、説得したのも行成。

次世代の東宮を第一皇子ではなく第二皇子の彰子の息子にするよう一条天皇を説得したのも行成。

行成は天皇の秘書室長を長く務めていたのだけれど、相当優秀だったらしく一条天皇が行成の昇進もストップしてでも側に置いておくほどお気に入りだった。
道長の意に沿うように、かつ天皇や周りが納得できるような理論武装をする能力が行成にあったから四納言にまで昇ったと言える。
「歴史は勝者の歴史」という言葉もあるように、彰子の株を上げたい道長サイドのフィクションかもしれないけど、我々は好きに解釈して良いのだ。

紫式部と彰子

紫式部は枕草子を読んでいたか?
読んでいたと思う。
紫式部日記に清少納言の悪口が残っていて、少なくとも紫式部側は清少納言に思うところがあったんだろうけど、その記述で
枕草子に関して「よく見ると」と書いてある。

ここからは想像だけど。
彰子に仕える前から枕草子はバズってたんでその頃から読んでいたと思うのです。
定子と清少納言のキラキラは紫式部には羨ましかったんじゃないかなぁ。
彰子に仕えることになったとき、期待したと思う。
自分と彰子もああいう関係を築けるかもしれない。

でもそうはならなかった。
まず紫式部と彰子が陰キャ同士で打ち解けるまでに時間がかかったらしい。
そして文学の素養も障子は定子ほどではなかった。
彰子がリーダーシップを発揮するのは年を重ねてからで、枕草子にあるような、上司と部下の打てば響くようなやり取りは難しかったんじゃないかと。

紫式部も推し活として枕草子みたいなものを書きたかったと思っているんだけど、そう上手くはいかなくて。
だから違う形の推し活として源氏物語を書き上げた。
実際、バズって彰子サロンは人気になっていくわけだし。

日記にある清少納言の悪口も半分は憧れが入っているんじゃないかと。そう考えてます、その方が面白いから。
旦那の悪口載ってるから半分は本気でムカついてたと思うけど!

紫式部

紫式部の生涯

父は藤原為時
漢詩、和歌の詩人で花山天皇の家庭教師を務める。
赤染衛門の夫、大江匡衡から
「凡人以上の才能がある詩人」と評価される。

有名なのは曽祖父。三十六歌仙の一人。
百人一首に選ばれている。
「みかの原 わきて流るるいづみ川
      いつみきとてか 恋しかるらむ」28番
会ったことない女性へ送る「一目惚れ」ならぬ「ゼロ目惚れ」の歌。
幼少期、この曽祖父の家で育ったらしく和歌の才能はここで培われたか。

兄(弟という説も)と姉が一人ずつ。
父親が兄に漢文を教えているときに横で聞いてた式部の出来があまりにも良くて
「お前が男だったら出世しただろうに」
と嘆いたのは有名な話。

姉は母親代わりに式部を育ててくれたが早くに亡くなる。
時を同じくして年上のお姉さんと親しくなる。
このお姉さんもまた妹を亡くしていて、お互いの穴を埋め合うような形で姉妹のように仲良くなる。
しかしこの交流も長くは続かず、お互いの親の転換で物理的な距離ができてしまう。
歌を贈り合う交流は続いていたようだが後に感動の再会、とはいかなかった。
姉の死から始まるこの経験が陰キャの種を植えたのかもしれない。

寛和の変で花山天皇が出家した影響で父親が10年ほど道長ファミリーに干されて無職に。
生活は相当苦しかったみたい。
世の中の無常、不条理を経験して陰キャの芽がすくすく育つ。

その後、道長によってパパは越前守に。
今の福井県あたりの県知事って感じです。
紫式部も父親のお世話係としてついていく。
紫式部が京都から離れたのはこの時だけだった。

また、この前後で後の結婚相手からプロポーズされている。
2年ほどで京都に戻り結婚。
相手は父親の同期くらいの人なんで20歳以上年上でした。

娘が1人誕生するけど、結婚生活3年くらいで旦那さんが病気で亡くなる。
そういう意味では順風満帆とは言えない結婚生活。
ここで陰キャがほぼ花開くこととなり、この後に源氏物語を書き始める。

その後、道長に呼ばれて彰子の家庭教師に就き、道長の支援を受けながら源氏物語を完成させるに至る。

彰子に仕えた後、娘が18歳になった段階でバトンタッチして本人は引退。
老後は一人暮らしだったようです。
なお、引退した後にも公任がちょっかいかけてきて塩対応して楽しんでた模様。

著書

「源氏物語」
54帖に渡る長編小説
超絶イケメンの主人公、光源氏がそのモテスキルをもって全方位の女性を口説くお話し。
口説けなかった女性は一人だけ(異論は認める)

後半は息子の夕霧、薫の中将が主人公の次世代編。
夕霧は真面目系イケメン。薫は屈折型イケメン。

「紫式部日記」
彰子に仕えた期間のうち、2年ほどの出来事を記録したもの。
有名な清少納言の悪口はここに。
道長、公任のハラスメントなども。
紫式部は自身のことを紫式部と呼んではいなかったので、後世の人が「紫式部日記」と名付けて広めた。

「紫式部歌集」
晩年に製作された歌集。
人生の時系列順にほぼ並べられているので紫式部の生活や思想の研究に役立っている。

紫式部の近親者

旦那さんは藤原宣孝

枕草子で清少納言にディスられているのは有名。
好意的に見るなら遊び心があり、風流な人と言える。

実際、芸事で活躍した記録が残ってて、公式式典で舞を踊り評判が良かったりしている。

同僚の娘である紫式部と結婚するんだけどスゴイ歳の差婚。
宣孝からプロポーズしてるけど、どういう心境でそこに至ったのだろう。
受けた紫式部の心境も気になる。
筑紫守、今の福岡県知事てきな役職を務めたりしているので財力はあった。金か!金の力か!?

歳の差婚なだけあって、紫式部以外にも妻を複数持ち子供もいる。
長男が紫式部と同い年くらい。

でも仲が冷えた仮面夫婦、というわけではなかったようで、宣孝が他の妻のところへ行って顔を見せないことでキレて喧嘩する歌のやり取りが残っていたりしている。
宣孝が亡くなった際の歌も残っている。

結婚生活は3年と短かったけど、宣孝の死因は年のせいではなく当時流行した疫病が原因。
その3年は紫式部にとって幸せだったと思いたい。

娘が一人。
大弐三位(だいにのさんみ)が通称。
母が彰子のサロンを引退するときにバトンタッチで就職。
コネ就職とも言えるが文学の才能は両親の血をしっかり継いでいるし、本人の力でかなり出世している。
母親同様、百人一首に選ばれていることからもその才能の凄さは伝わる。

母と違って陽キャだったか、色々な男性と浮き名を流す。
藤原道兼の息子と結婚。
後に天皇の乳母を務める。
この時に忙しすぎて、すれ違い夫婦となり離婚。

その後、10歳上の男性と再婚する。
夫の太宰府への転勤時、自身が内侍という偉い役職だったため夫は単身赴任となる。
忙しい中、天皇に直談判して有休をもぎ取り夫に会いに行ったと残っているので、この結婚は上手くいってた模様。

この夫との子供の子孫(5代後ほど)が平清盛の奥さんになる。

紫式部と百人一首

紫式部
「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに
        雲隠れにし 夜半の月かな」57番

懐かしいあの人と偶然出会って
声をかけようかと思っている間に
雲に隠れる月のようにあの人の姿も人混みに紛れて消えてしまった

「あの人」が元カレとかだったらキュンキュンするのだけど、幼少期の幼馴染ということが研究による結論。
紫式部歌集の最初の歌がこれだから、時系列に並んでいるなら若い頃の歌であろう、という見解らしい。

その説を取るなら、この歌は紫式部が10歳頃の歌でスゴいし、元カレと見立てて楽しむのも現代の我々の自由だと思うのでお好きな方を。

百人一首の覚え方の一つに取っ掛かりとして「一字句」というものがある。
その内の1つがこの歌。
「め」で始まる句はこの歌以外ない、ということ。
全部で7首「むすめふさほせ」で語呂合わせ。
なお「一字句」の反対、6文字目までどっちか分からないのは6首「あさぼらけ」「わたのはら」「きみがため」から始まる3組。これは「大山札」「大山越え」と言う。
詳しくは漫画の「ちはやふる」でも読んでみては。

娘、大弐三位の歌
「有馬山 猪名のささ原 風吹けば
     いでそよ人を 忘れやはする」58番
親子を並べて載せているのは定家の遊び心か。

恋愛上手だった大弐三位。
彼女をしばらくを放ったらかしにした恋人が
「しばらく会ってないけど私のこと忘れてないか心配だよー」
と舐めたことを言ってきた時に返した歌。

上の句の地名はここでは省略
「わたしが忘れるわけないでしょ」と最後を反語で締めている歌。
なお、この歌が彫られた日本刀があるらしい。
そっちは門外漢なので、ここまで来ると流石に訳が分からない。

 

 

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