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道長のライバル

ライバルという政敵というか

対 象

実施日

藤原伊周. 隆家

藤原伊周

読みは「これちか」
道隆の子、定子の兄にあたる人。
道長とは叔父と甥の関係。
最終的に「儀同三司」という位になったので、百人一首の「儀同三司母」は伊周の母親ってことになる。
定子の下に隆家という弟がいて、だいたい伊周とワンセット。

道隆の長男としてスーパーエリート教育をされたので、文武両道の貴公子と評価される。

兼家が死んで父親の道隆が摂政になると身内昇進政策によりガンガン出世するが、当たり前のように周囲の反感を買う。
父親が摂政、関白。妹は天皇の第一夫人。
当時まだ10代後半だったので和歌などの才能はあれど世渡りの才能は育ってなかったようで、調子乗りまくってたんだね。

特に反感を買ったのは道長と詮子。
まぁ詮子は道隆を嫌っていたから坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。

道隆の摂関時代は6年で終わってしまう。
継いだ道兼も2週間で終了。
そこで道長との権力バトルが発生する。
一条天皇は定子の兄である伊周を推したかったんだけど詮子からの大反対により頓挫、道長に権力が移る。

道長との緊張関係のうちのいくつかを紹介。
・道長と会議中大喧嘩。周りドン引き。
・隆家の家来と道長の家来が道の真ん中で乱闘。
・道長のSPを隆家の家来が殺害。
この3つ、10日間くらいの間で起きてる、エグいわー。
・伊周、隆家の母方の祖父が道長を呪詛していると噂が立つ

そんななか、花山院襲撃事件を伊周、隆家兄弟が起こしてしまう。
それをきっかけとした伊周邸への強制捜査で反逆の証拠が見つかり(道長サイドが盛りまくった可能性があると思う)、伊周、隆家、母親の流罪に持ち込まれ中関白家は崩壊する。

藤原家の何が怖いって、ここまで叩き潰された伊周は数年後、道長の働きかけで政治の中枢に戻るんだよね。
平安貴族の流罪は数年後に恩赦が定石なんだけど政治の場に戻ってくることはなかなか無い。

ここら辺は道長の政治思想とか二面性とか、素人ながら色々想像の余地があるのだけど割愛。

藤原隆家

伊周、定子の弟。

伊周が貴公子、優雅、弱々しさを特徴に持つのに対して
隆家は豪快、豪胆、粗野な人として描かれる。
「さがな者(荒くれ者)」という記述が大鏡にある。
和歌集にも載るくらいの人ではあるのだけれど。

九州の方に自推で赴任して現地の敵対勢力や外敵と戦って平定に尽力するなどして名君だったらしい。

ヤンチャさが良かったのか、道長や何につけて批判的な実資にも可愛がられる様子が御堂関白記、小右記に残る。

古文に見る伊周、隆家

歴史は勝者の歴史である。
勝者である道長を立派に書くために敗者はみっともない姿を書かれる。
大鏡や栄花物語における伊周を筆頭とした中関白家は敗者のそれであり、咬ませ犬、やられ役としてカッコ悪い姿を描かれている。

最も有名なのは道長と伊周の競射。
流罪実行の日に母親と泣き合ってなかなか出発しなかったことや、流罪地に行かずに京都に戻ってきて捕まるところも描かれている。

だから伊周のダサさを割り引いてみた方がいいのか、というとそんなこともなく。
実資の小右記にも伊周の没落は「本人の器が小さく自業自得」と一刀両断されているが、実資は道長にも批判的だし、そういう意味で勝者に媚びることなく書いてあるから信憑性は高いのではないか。

上記にたいして枕草子では中関白家は総じて好意的に描かれている。定子の推し活の一環であるし伊周、隆家がブイブイ言わしてた時の様子のみを意図的に選んでいるので当たり前なんだけども。
有名どころは
隆家の「中納言参りたまひて」と
伊周の「大納言参りたまひて」

なお「中関白家」の「中」は父兼家から弟道長への中継ぎという揶揄も込められている。
道長は御堂関白と呼ばれているけどこれは晩年に寺を建てた功績から。

絵巻などに見る伊周はデブのオッサンに描かれているし、デブ話もあるんでデブだったんだろうと思われるが、枕草子の伊周はスーパーイケメンに描かれているのも面白い。
まぁ当時の美意識はイケメンはデブなんだけど。

藤原実資

小右記

藤原実資「さねすけ」と読む。
なんといっても「小右記」
1にも2にも小右記。

この人の日記が大量に残されていたから当時の政治状況が判明しているわけで、物語形態の大鏡、栄花物語だけでは平安時代は解明されていないとまで言われている。

道長の御堂関白記、行成の権記も有力な資料だけど、どうしても道長寄りになる。
その中で長いものに巻かれずだめなものはダメ、という姿勢でいた実資の小右記は歴史解明には相当役立ったのは分かる気がする。
教科書にも載ってる道長の有名な歌
「この世をば わが世と思ふ 望月の
       欠けたることも なしと思へば」
これも御堂関白記ではなく小右記に載ってたので世に知られた。

我々が学んでいる平安時代はほぼほぼ小右記なんやで。
まぁ中身は愚痴なんだけれども。

藤原四家

藤原氏は大化の改新の立役者、中臣鎌足がその功績により「藤原」という名字をもらったというざっくりとした知識はあるはず。
その孫が4人いて、彼らをスタートとする藤原一族が藤原四家。
北家、南家、式家、京家の4つになる。

道長らへんの時代は北家以外は衰えていたので有名人は大体藤原北家の人になる。
道長も実資も北家。公任、斉信、行成も北家。紫式部なんかも北家だったりする。
こっからは私も今回勉強したこと。
南家は和泉式部の旦那の保昌がいたり、清少納言の2番目の旦那がいたりする。
式家は「薬子の変」の薬子がいた。
京家は知らない人ばっかりだった。母系で現在の皇室に繋がっているらしい。
まぁ北家だけ抑えておけば歴史としては良いんでしょう。

じゃあ北家は全員仲良く支配層だったかというと、そんなわけなく、更に流派というものに細分化されるらしい。
私はそこまで学び切れてないので知らないが、道長は九条流、実資は小野宮流、紫式部は良円流。

小右記は「小野宮流」の「右大臣まで出世した実資」が「記した愚痴日記」だからそれをまとめて「小右記」と呼ばれているわけ。
紫式部の流派は政治の中枢には絡んでいないから北家でも貧乏貴族だったりする。

実資は小野宮流のボスで、本来は小野宮流の方が上の立場。立場上も道長のライバルだったということになる。

実資の有能さ

実資は道長ファミリーが力を持ってもそれに媚びることなく一定の距離を置いていた。
伊周の台頭には不快感を表明するし、定子、彰子の中宮昇格にも反対する。

道長も「実資うっさいなぁ」と思いながらも排除できなかった。

なぜ排除できなかったのか。
もちろんそれは有能だったからなんだけど、その有能さと道長への距離の取り方は根底が同じだったりする。

当時、行政の世界で最も重要だったのは何か。
それは「前例」である。
朝廷が何かをするとき「前例に倣う」ことが基本的に正しいとされていて「前例、道理、通常」というものが政治活動の根拠となっていた。
またその前例の中には当時ブームだった中国のことまで含まれていて、平城京や大宝律令が中国のパクリだったことは勉強した人も多いと思う。

実資はメッチャ頭が良くて過去の朝廷の記録がほとんど頭の中に入っていた。小野宮流が北家のメイン筋だったので資料の蓄積が集中していたことも大きい。そして当時の記録は漢文だったから漢文にも強くて中国の故事や記録にも当たり前のように強かった。

天皇や道長が「○○したいな」と考えたとき、細かいところまで決めるためには「前例が分かっている人」というのが必要になるので、実資は行政において必要不可欠な存在だった。
だから道長は実資を排除したくてもその有能さは排除できなかった。

そして実資は兼家から始まる道長ファミリーの権力行使が「前代未聞のこと」ばかりだから、そういうことをする道長ファミリーを批判していた、というわけになる。
清廉で頭脳明晰、かといって頑固過ぎず道長に明確に反発することなく柔軟な対応もできるスーパー政治家だった。

同じく頭が良くて前例をよく知ってるとして重宝されたのは四納言の行成。
前例をよく知る、ということはレアケースを持ち出して為政者の都合の良いように調整してあげられる、ということもできるわけで、行成はこの調整能力がバカ高かったから一条天皇や道長に物凄く重宝された。
同じ能力の高さでも長いものに巻かれるか否か、空気を読むか読まないか、そこらへんが実資と行成の違いだったんじゃないか。

まぁストレス貯まる立ち位置だったから二人とも日記に愚痴を書くことになるんだけども。

望月の歌

時は道長絶頂期。
三女を後一条天皇(娘が孫の嫁…)の皇后になった折の式典。

酒を飲みながらの二次会で実資に「必ず返歌するように」と前置いて読んだのが
「この世をば 我が世と思ふ 望月の
       欠けたることも なしと思へば」
「この世は全部オレのものだ 満月のように欠けていることもなく 全てを手に入れたぜ」
という歌。

この最高に調子乗った道長の歌に反骨人の塊になった実資は…
中国の故事に前例があったことを思い出して
「いやぁ、あまりにも素晴らしい歌だから、それを繰り返しますわ(棒読み)」
と同じ歌を繰り返すことを返歌とする。
周りの貴族も倣って望月の歌の大合唱となって大盛り上がり。
という実資が上手く切り抜けた話。

ちなみにこの時皇后になった三女に付き添った女房は紫式部というオチがつく。

実資と道長

お互いに距離を保ちながらも認めるところは認めていたのが2人の関係。伊周なんかより実資の方がよっぽど「よきライバル」ってやつじゃないか。

望月の歌の他に気骨のある人物として残っている逸話は
・彰子入内に際して貴族から和歌を集めて屏風に書く、という企画が立って花山院まで和歌を送る中、実資だけは道長に催促されても「大臣に命令されて屏風に和歌を書くなんて聞いたことないわボケえええ」と断り続ける。
この屏風に和歌を書く役はもちろん行成。公任がワザと遅刻するやつ。栄花物語による。

・一条天皇の次の天皇は三条天皇で道長と仲が悪く、この人の中宮問題に関連して、ある式典を道長がボイコット。
他の貴族も道長に従う中、実資と隆家だけは駆けつけて式典を取り仕切る。ていうか道長のイヤガラセが子供じみてて…,

小右記には道長の強引な政治手法を痛烈に批判していると同時に人物、能力を評価する記述が多くある。
・道長が病気で寝込んだとき、それを実資らが喜んだと噂が流れたが道長が「実資と道綱に限ってそういうことはない」と断言してホッとした。
・ある式典の際に道長は息子の頼通に「なんで実資を観察して学ぼうとしないんだ、うちのバカ息子は」と嘆いた。
・道長が病気で重体になったとき「朝廷の柱が失われる」と嘆いた。

実資の為人

実資は正妻が3人。同時期というよりは亡くして後妻をもらう、という形らしい。
2番目の妻が有名で源高明の孫にあたる人。
花山院の女御だった人で花山院が出家しちゃったもんだから実資と再婚同士で結ばれた。
かなりの大恋愛だったようで仲が良かったらしい。
百人一首の52番、藤原道信はこの婉子女王を狙っていて口説いてたんだけど実資に取られて諦めた。

子供の中で娘の千古が有名。
年がいってからの娘で溺愛して親バカで「かぐや姫」と呼んだと大鏡に残る。
息子たちをほっといて、小野宮流の全財産を千古姫に生前贈与するほど。

小野宮流の存続のために道長と明子の息子、嫁を亡くしたばかりの長家に嫁がそうとする。
長家「妻を愛していたんで流石に喪に服す1年間は新しい嫁をもらうのはちょっと…」
と断られる。
その半年後に長家は別の女性と再婚、実資ブチ切れたらしい。
なお、長家の亡くした妻は行成の娘、再婚した女性は斉信の娘。

亡くなった行成の娘が父親の血を引いて達筆でその字を巡ったストーリーが更級日記「物語」。
ちなみに更級日記の作者の父親、菅原孝標は千古姫の家の私設秘書みたいなことをやってる。

結局、長家ではなく道長の孫に千古姫を嫁がせることになるんだけど、千古は実資より早くに亡くなってしまう。
生前贈与していた小野宮流の財産も旦那の方に渡ってしまったので、実資の親バカのせいで小野宮流は消滅していくことになる。

晩年は痴呆症だったらしいが小右記はその頃も書いていたんだろうか。中身、大丈夫かな??

 

 

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